1990年1月1日の朝、私は元日にもかかわらず出勤していた。私は仕事着
に着替えると、時刻を確認するためポケットから電子手帳を出した。
私の電子手帳はセイコー電子製のDAYFILER DF-2200で、使い始めてもう
3年が経つ。この間シャープやカシオから次々と電子手帳が発売された
が、スケジュール管理機能においてはDFに及ばず、食指は動かなかった。
さて、ポケットから取り出したDFは、少し様子が違っていた。いつもなら
英数カナで20文字×2行の小さな表示部の上段に日付と時刻が表示されるのだ
が、その朝は下段に次のような表示が出ているのみであった。
please wait
3年間使っていて一度も見たことのない表示であった。どのキーを押しても全
く反応がない。ただplease waitと出したまま沈黙している。ただのプログ
ラムの暴走ともどこか違っている。通常の使用状態ではこのような表示が出る
ことはないのだから、わざわざこんな表示を出して暴走に入ることもあるま
い。私は途方に暮れてしまった。何を待てばいいのか。いつまで待てばいいの
か。この電子手帳は新年早々、私に何を訴えようとしているのだろうか。
please wait
私は頭の中でもう一度繰り返した。待つことにしよう。ともかくしばらく待っ
てみよう。私は電子手帳を自分の机の上にに置いたまま、部屋を後にした。
2時間ほどして部屋に戻ると、表示はやはりそのままだった。私はたかが
電子手帳の言葉に従って2時間も待ってやった自分がおかしくなった。裏ぶた
にあるリセットスイッチをペン先で押せば、元に戻るだろう。この手帳に入っ
ているデータを失うことにはなるが。データといっても、わずかなスケジュー
ルと電話番号、覚書程度のメモ、何人かの誕生日を入力してあるだけで、取り
立てて重要なものではない。私は引き出しを開けてボールペンを取り出した。
please wait
この言葉が再び眼に焼き付いた。なぜかその文字はリセットをかけるのは
待ってくれと哀願しているように思えた。やはり何かが私に訴えている。何か
がこの電子手帳を借りて私にメッセージを送ろうとしているのか。背筋が寒く
なった。周りを見回しても人の気配はない。何を待つのか。私は改めて自問し
た。この電子手帳の内部処理の中で2時間もかかるようなものがあるはずもな
かった。仮に容量いっぱいに文字を書き込んで検索を命じたとしても、せいぜ い
1、2秒ですべての処理が終わるはずだった。もちろん、そんなことを命じた
覚えはない。
「もうこれ以上待てないよ」
私は声に出してこう言った後、勇気を出してボールペンを握り直し、裏ぶたの
リセットスイッチを押した。
all clear
ok(Y/N)
見覚えのある表示だった。リセットをかけても表示が変わらなかった時のこと
を内心恐れていた私は、ほっと溜息をついた。私はゆっくりと手帳を開き、Y
のキーを押した。表示は1986年1月1日に変わり、時計が0時00分から時を刻
み始めた。
手遅れだった。私が電子手帳の言葉に従って「何か」を待っていた2時間
の間に、すでに物語は始まっていた。誰も気がつかない間に、歯車は動きだし
ていたのだった。 私は待ってはならなかったのだった。
---- つづく ----