島原の長い夜

遥かな昔、イタリアのポンペイで起こったと言われる悲劇の縮図が島原市に現 れた。

6月3日の18時ごろから始まった騒ぎは、佳境に入りつつあった。既に島原温泉病院か

ら4人の患者が転送され、教授以下の全教室員が救急部やICU、病棟などで 治療に追わ

れていた。私はDr.Kとともに医局に残り、増えてきた電話の応対やテレビ からの情報

収集にあたっていた。

21時ごろ、島原温泉病院への電話が通じなくなった。お決まりの安否を気遣う電話の殺

到のためだろう。島原にはまだ5人の患者が残っていた。大学に運ばれた4人 のうち3人

は、ほぼ救命が不可能と思われ、島原の5人のうち救命できそうな患者がいれ ば、さらに

転送を受けてよい状況だった。

そこで、Dr.Kが考えたのは、こちらから一人島原温泉病院に派遣して、向 こうから電

話連絡を確保するということだった。私は伝令として救急部に下り、この考え をF教授

に伝えた。「でも誰をやるね。あまり若い者はやれんし、Y君たちはここの 手が離せな

いだろう」「ぼくでよければ行きます」というやりとりの5分後、Dr.Kの 「殉職した

ら線香を立ててあげるよ」の声に送られ、私は4人目を運んできた救急車に乗 っていた。

長崎市内では、一般の車がなかなか道を譲らないので腹がたつ。救急車の中で 、患者につ

いてきた医師と看護婦から情報を得る。予想したほど悲壮感はなく、わりに明 るい二人で

あった。島原半島の入口の町、愛野では警官が検問していた。ここからは交通 規制で一般

車は通れない。夜の国道57号線は、パチンコ店の明りが道しるべである。島原 市に近づ

く。照明の明るいパチンコ店とレンタルビデオショップには人が群れていて、 何事もなか

ったかのようだ。長崎を出て50分、救急車は島原北の消防署に給油のため立ち 寄った。

ここでパトカーの中で黒こげになっている警官が発見されたとの報に接した。 島原駅前ま

で来ても、予想に反して別に火山灰が積もっているわけではなかった。市内の 中心部から

南に進むにつれ、道路や自動車の屋根に積もった火山灰が厚くなる。

島原温泉病院の玄関には既に多くの人が群れていた。玄関の左側にあのテレビ に映ったベ

ッドの並んだ場所があった。講堂なのだという。その入口にDr.Tが報道陣 などに囲ま

れて立っていた。救急車の医師に紹介してもらうと、早速手術室に案内された 。回復室か

と思われるところに、二人の患者が並んでいる。患者一人につき二人ほどの看 護婦がつい

ている。手術室には奥の部屋にもう一人。二人は病棟に上げたのだという。こ んどは病棟

へ向かう。途中の階段ですれちがう人に、Dr.Tがわざわざ紹介して下さる ので恐縮す

る。病棟では患者に家族が付き添って、体表にあてた濡れたガーゼを換えたり していた。

5人とも気管切開か挿管を受けているが、レスピレータの装着はしていない。Dr. Tに

使用可能なレスピレーターの数を尋ねる。3台程度のようだ。ひとまわりした ところで大

学へ到着の一報。以上第1回目の巡回で指示したこと。

・面積判定のため手足の包帯を解くこと

・今までの輸液量と尿量を集計すること

・5%ブドウ糖の輸液はラクテックに変えること

また手術場へもどり、術衣に着替えさせてもらう。医師たちもひと休みといっ たところで

安らいだ雰囲気である。夕方はさぞ大変だったろう。回復室の一人目は外陰部 と胸部に正

常皮膚が残っているものの、他はすべて3度で、顔はパンパンに腫れて冷たい 。頚が全周

性に焼けて絞扼されているのか。尿は血液のように黒い。回復室の二人目と手 術室の患者

は外陰部以外は見事に均一な3度熱傷でまさに丸焼けである。胸郭の運動にか なり制限が

ありそう。やはり減圧切開を要するようだ。摂氏500度とも言われる熱風にさ らされた人々。

原爆の爆風を受けた人達はまさにこうだったのだろうと思われた。輸液の量は ほぼ適切だ

ったが、内訳に多少問題があった。病棟の一人目は先の二人と同じ外陰部以外 丸焼け。舌

もカチカチに凝固している。だが二人目は3度が50%、2度20%くらいで口腔 の焼け方

も5人の中ではもっとも軽い。転送するならこの患者だ。大学へ一人送れそう との連絡。

Dr.Tに病棟の一人以外は救命は困難でしょうと説明。Dr.Tも「今までも 焼身自殺な

んかが来ましたが、だいたい朝までもちませんからね」とのお話であった。以 上第2回目

の巡回で指示したこと。

・アルブミンはまだ入れない方がよい

・減圧切開用の電気メスを準備すること

・各患者にレスピレーターの装着ができるよう準備すること

・消防署に再度転送の準備を要請すること

3回目の巡回では減圧切開を開始。私がばさーっと切ると救急車で一緒だったDr. が止血。

鎮痛剤やガーゼなど、まわりが忙しくなる。一人が終わると、電気メスと私だ けが次の患

者へ移動。そこでは既に別の医師と看護婦が待っている。突然の災害にもかか わらず、も

う半日たったせいか見事な段取りではある。切開の間にも他の患者の検査結果 が手元に来

たり、輸液の量を増減したりと、手術場と病棟を往復し、まるで一人で5人の 重症熱傷を

抱えこんだような騒ぎとなる。お茶を飲む間もなく、ナースセンターの水道の 水を湯のみ

でいただく。傍らでは準夜と深夜の看護婦の申し送りが行われ、非常召集から 日常の体制

に戻りつつあるのには驚かされた。処置の合間に各方面に連絡。どうやら大学 に一人、

Dr.Iのいる宮崎病院に一人ということで話がまとまりそう。誰を送るか。 私がまさに

5人の運命を決定するという場面が訪れた。一番軽い一人は大学へ送ることと する。あと

の4人はどれも難しいが、辛うじて気道熱傷の軽そうな回復室の一人目を宮崎 病院へ送る

こととする。転送する患者の家族にはDr.Tから説明が行われた。残された 3人の家族

は見捨てられたと思うのではないか。余計な心配とは思いつつ、そんな考えが 頭をかすめ

る。

大学へ送る患者の車に誰が同乗するかということになり、私が乗って帰ること になった。

最後の一人の処置を終わると、着替える間もなく血だらけの術衣のままで追わ れるように

救急車に乗り込む。あっという間の島原温泉病院での4時間であった。国道57 号線を

100km/hオーバーで飛ばす車内での気道の吸引や輸液のつなぎ換えは容易でな く、同乗

の看護婦と二人がかりでももどかしい。真夜中というのに行く手を走る車がか なりいる。

救急車の運転手の腕を侮ってかどの車もなかなか道を譲らない。車は減速を余 儀なくされ、

行きと同様腹がたつ。島原から大学までの所要時間は45分に過ぎなかった。

私はシャワーを浴びた後に誰もいない医局のソファーで休ませてもらった。そ の間もM

講師以下の全員が患者にくっついていたようだ。

残念ながら、私が宮崎病院に転送した患者は、Dr.Iと大学から応援したDr. Yの努力

にもかかわらず、病院での最初の死亡者となってしまった。やはり転送には無 理があった

のかもしれない。私が大学に連れてきた患者は、大学到着2時間後に心停止を 起こし、蘇

生したものの現在命だけは保っているというところであるらしい。島原に残し てきた3人

は、Dr.Tの見通しよりも少し長く生き、2、3日後に死亡した。同様の重 症だった大

学の3人も1〜3週の後に死亡したことを考えると、島原に残すのと大学に送 るのとどち

らが幸せだったか、考えさせられるものがある。

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