ドイツ語訛り

「ザーはないんでしょ」

「へっ?」

「ザーじゃないんでしょ」

「へへっ?」

「ザーではないんでしょう」

「……あぁ、そうではありません」

  これはもう2年以上前、電話での会話である。

 その休日、国立佐賀病院の当直をしていた私は、救急車で運ばれてきた意識のない30代の男の転送のため電話をしていた。患者は肝硬変の持病があり、日ごろからペットボトルのジュースを1日に何本も飲むという生活をしていたが、その日の朝自宅の玄関に倒れていたところを発見された。男はアルコール臭をさせており、体中に暴行を受けたらしく顔は腫れ上がっていた。昏睡の原因として、アル中、肝性昏睡、糖尿病、頭部外傷がすべて考えられた。CTを撮ると頭蓋骨の骨折があり、その下に血腫があるようだ。やはり脳外科のあるところに紹介が必要だと、佐賀医大に電話した。電話に出てきた女性の救急医との会話が冒頭のものである。

  3度目の「ザー」で、ようやく頭の中に「Sah」という文字が浮かんだ。彼女は「SAH」つまりsubarachnoid hemorrhageのことを言っていたのだ。3度で理解できた自分に感心している間に、彼女は今別の患者を手術中で受け入れないとか何とか言って電話を切ってしまった。「ザー」なら受け入れたのかな。患者は別の脳外科のある救急病院が受け入れてくれた。

  長崎大の脳外科ではくも膜下出血のことを「サブアラ」と言っていたような記憶があるが、いくらなんでも「ザー」はないだろう。 subarachnoid hemorrhageをSAHと略すのは良いとして、それをわざわざドイツ語読みにするとは。金沢大学附属中学を金大中と略してキムデジュンと呼ぶようなものではないか。「くも膜」とまでは言わなくても、せめて「エスエイエッチ」と言ってくれれば,その場の状況が状況だけに理解できるのに。

  「あの医者,最低だよ。いつの日か,頭が痛くて『ザーのようだ』と言っても誰からも相手にされずに,くも膜下出血でくたばる時が来るぞ」などと次の日外来で看護婦さんに悪態をついていたのだが、その日の外来で患者さんに「へっ?」という顔をされた。「手術は痛くないですか?」という質問に,「痛くないですよ、局麻の注射は痛いですけど」と思わず答えてしまったのだ。間髪を入れず局所麻酔と言い直して事なきを得たものの、素人にわからない身内言葉をつい使ってしまうというのは、常に気にかけておかないといけないものだと思った。

(1996)

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